2006年11月10日

祖母よ永遠に。

6日(月)午前11時35分。
入院中だった祖母が、亡くなりました。

祖母は、心臓弁膜症という病に加え、今年の春に転倒したことが原因で、大腿骨骨折をしてしまい、入院をしていました。骨折の手術は無事に成功したのですが、脳に何らかの影響があったようで、脳梗塞のような症状が表れました。一時はどうなるかと思っていたのですが、なんとか回復をみせ、車イスに乗れるようにまでなりました。心臓の手術は、年齢的にも相当なリスクを負うことになります。手術はしたくないという祖母の意見を尊重し、自然にまかせる事にしましたが、これ以上良くなることはないだろうといわれていました。

その後病院を退院してリハビリ施設に入居し、毎日リハビリに励んでいました。
私たち家族も親戚と交替でお見舞いに行く日々が続きました。
元気になってきた証拠に、沢山おしゃべりをするようになったし、わがままも言うようになりました。
オシャレにも気を配り、お化粧をしてもらったりもしていました。
施設では、周りの方々と上手くやっていけないと話していた祖母も、リハビリだけはがんばっていたようで、一時帰宅した時には、居間のソファから電話のある所まで自分の足で歩いていけたそうです。

リハビリをがんばり過ぎてしまったせいか、持病の心臓に負担がかかり、再度入院を余儀なくされてしまいました。入院した祖母は、日に日に体が弱っていくのがわかる程でした。
11月の3連休に入る頃、病院の先生から1週間もつかどうかと告知を受けました。
3連休中は、家族や親戚が病院に詰め、祖母に声をかけて励ましたり、思い出話を沢山しました。私は、亡くなる前日にもお見舞いに行ったのですが、脈拍が150近くにもなり、それはまるでかけ足でもしているかのような状況でした。血圧も下がり、いつどうなってもおかしくないという状況にありました。

そして月曜日の昼、母から祖母が亡くなったという連絡が入りました。
私もすぐに病院にかけつけ、霊安室に安置された祖母と対面しました。
祖母の顔を見た瞬間、涙がこぼれました。
まるで何かから解き放たれたかのような、笑みを浮かべた表情だったからです。

告別式のお清めの席で、内孫である従兄弟が孫を代表して祖母にまつわる話しをしてくれました。その従兄弟が、いつも祖母をいたわっていた事を私もよく覚えています。
足の運びが悪くなってきた時には、そっと隣に寄り添い、手を貸してあげていました。
その従兄弟が祖母にまつわる話しをしたフレーズの中で、とても印象に残った一言がありました。「祖母はとてもやさしい人で、そしていろんな事を教えてくれた人でした。・・・(中略)幸せは待っててはいけない、自分でつかみとるものだと。」
祖母は従兄弟とそういう話をしていたのかと、改めて気づかされました。

私は小さい頃、相当いたずら好きだったようで、どちらかというと祖母を困らせてばかりいたように思います。よく話しに出てくるのは、祖母が私の面倒を看に我が家に来ていて、夕飯にと天ぷらを揚げていました。天ぷらを揚げている祖母を私がトイレに連れて行き、鍵をかけて閉じ込めてしまったそうで、祖母は天ぷらの火をかけっぱなしにしていたので気が気でなりません。
トイレの窓から近所の人に助けを呼んでもらい、会社から父が駆けつけてくれたので、大事にはいたりませんでしたが、私は父から相当怒られたそうです。(そりゃそうですよね。)

他にも、祖母の家の和室で、グルグルと回転して目が回るのを楽しんで遊んでいた時に、よろけて体勢を崩してしまい、雪見障子のガラスを一面割ってしまったこともありました。やっぱり父に殴られ、怒られてしまいましたが、祖母はケガは無いかと心配してくれました。
さすがに大きくなってからは、そんないたずらもしなくなりましたが、相当祖母を困らせた事でしょう。

祖母の家を建て直す時に、一時我が家で一緒に暮らしていたことがあります。
たった半年の間でしたが、祖母と一緒に暮らせた事は、今となっては良い思い出になっています。母に似て、掃除が丁寧だと褒めてくれました。
年賀状印刷をやってあげたら、とても喜んでくれました。
ティアラと初対面の時は、「こんなかわいい犬は初めて見たよ。」と言ってくれました。

旅行に行ったり、買物に出かけたり、食事に行ったり、映画やライブにまで私たちと一緒に出掛けることが大好きだった祖母でした。またユーモアのセンスもあり、家族を楽しませてもくれました。そして、「母」という言葉がふさわしい、とても優しくて、寛大な人でした。
いまだ悲しみ冷めやらない心境ではありますが、家族共々力を合わせてがんばっていきたいと思います。
posted by あいしぇ at 00:00| あいしぇ日記